5月の遅生まれということあって、サイレンススズカは1997年2月1日の遅い新馬戦デビューを飾ります。2着のパルスビートに7馬身の大差をつけ、前評判の高さもあって一躍クラシック戦線に名乗りを挙げました。しかし、皐月賞への出走権をかけた弥生賞で騎手を振り落としゲートをくぐるという後々まで語られる珍事を引き起こし、大外枠からのレースの方は散々でした。
その後、ダービートライアルのプリンシパルステークスに勝利し持ち直したかに見えたものの、肝心の本番ではサニーブライアン陣営の情報戦に踊らされ、入れ込みまくり、掛かりまくりで惨敗します。秋になっても、神戸新聞杯では鞍上村上の失態によりマチカネフクキタルの2着、距離適性を考慮して向かった天皇賞(秋)では大器の片鱗を見せるものの6着、急遽向かったマイルCSでは15着という大敗を喫し、その能力を発揮できないレースが続きます。
しかし、12月の香港国際カップ(当時G2)でサイレンススズカは契機を迎えます。この時鞍上に迎えたのは天才武豊。結果は5着でしたが、サイレンススズカの可能性を感じ取った豊とのコンビは、翌年の快進撃へとつながっていきます。
開け旧5歳になったサイレンススズカは、わざわざ関東まで乗りに来た豊を背にまずはバレンタインSを4馬身差快勝、続いて中山記念、小倉大賞典と3連勝を飾りました。れらのレースの中で武豊は直線手前で息を入れることを覚えさせていきました。そして、一度息を入れればこの馬は再度気合を入れた時に逃げていた時の足をも う一度使えるという手応えを掴んでおり、所謂「逃げて差す」というサイレンススズカのレーススタイルを定着させていきます。
当然G1戦線の主役に踊りでたサイレンススズカですが、この時はまだ相手関係や、中山記念で足が止まりかけ詰め寄られたこともあり、その逃げがG1で通用するものなのか懐疑的だった競馬関係者が多かったように思います。
しかし、次戦の金鯱賞でサイレンススズカは驚異的なレースを繰り広げます。このレースには重賞2勝を含め5連勝中のミッドナイトベット、昨年の菊花賞馬マチカネフクキタルなど、一筋縄ではいかない強豪が集まっていました。そのメンバー相手にサイレンススズカは1000m通過58秒1の大逃げを打ちます。後続のの騎手やファンは、当然どこかでペースを落とし、そこからどこまでサイレンススズカがどこまで持ちこたえるかというレースになると予想していました。
しかし、3コーナーを回り、4コーナーを回っても後続との差は一向に縮まりません。それどころか、直線半ばで更に引き離すようなまさに「逃げて差す」圧巻の競馬を披露し、11馬身の着差を付け、この金鯱賞は伝説のレースとなりました。